足守藩侍屋敷に立ち寄る
備中足守藩のお庭であった近水園には、よく立ち寄る。春の桜、初夏の新緑、秋の紅葉と吟風閣を背景に写真撮影の場所です。
駐車場の隣に、「足守藩侍屋敷」があるが、2回訪れたことがあるが、素通りして近水園に行くのが常でした。何気なしに、侍屋敷の長屋門をくぐると、管理人さんが居られて、親切に説明をして下さった。
白壁となまこ壁の長屋門、御成門、取り囲む塀が侍屋敷の重厚さを醸しだしているが、母屋は茅葺の質素な造りで、武家社会の質実剛健を体現しています。
足守藩主木下家と北政所
管理人さんの説明の中に、木下家の初代足守藩主は木下家定(いえさだ)で、関が原合戦前は姫路2万五千石の城主でした。関が原の合戦には参加しないで、北政所を守護しました。合戦後の慶長6年(1601年)に石高は同じで備中足守藩主に所領替えになったそうです。
家定の妹の「ねね」が木下藤吉郎(後の羽柴秀吉・豊臣秀吉)に嫁ぎ、秀吉が関白に任ぜられた時(天正13年(1588年))大坂城に移り「北政所」と称しました。このあたりは、NHKの大河ドラマに幾度も登場する場面です。お聞きした内容を元に足守藩侍屋敷と木下家について記述しています。
秀吉から木下姓を拝命し改姓する前は、杉原姓でした。その後、秀吉から豊臣の称号が与えられ、豊臣と名乗ることが許されました。これらの変遷は、家紋にも現れています。
足守藩木下家の家紋
木下家の家紋は三種類あります。
「立ちオモダカ」の家紋は、杉原家の家紋で、木下藤吉郎の頃、使用していたと推測されます。
「丸の内切り菊中左三つ巴(切り菊)」の家紋には、逸話があります。木下家定が、秀吉から「豊臣」の称号を与えられた時に、秀吉から菊と桐の紋も与えられました。3代藩主利房の時まで、菊の紋を使用していました。天皇から関白秀吉に下された菊の紋を使用することは恐れ多く、菊の花弁の端を切り、輪を加え、中央に三つ巴を描き「切り菊」の紋として図案化し足守藩木下家の家紋として使用するようになりました。
「五七の桐」は、菊の紋と同じ理由で、桐の葉筋を通す図案に変更して、使用しました。
これらの由来を実証するような品物が、この侍屋敷に残されています。一の間に掲げられている書「鶴雲」は、十代足守藩主木下利徳が書いたもので、「豊臣利徳書」と記されているそうです。
玄関の屋根の棟には「切り菊」の家紋が、土蔵の南面には「五七の桐」の家紋の鏝絵(こてえ)が掲げられています。
蔵に描かれた鏝絵(こて絵)と亀の飾り瓦
土蔵と内蔵に鏝絵(こてえ)が、玄関の屋根には亀の飾り瓦があります。
これらの図案が意味するところは、 1.木下家の紋(土蔵の南面):「木下家」 2.鶴と松(土蔵の北面):「千年」 3.亀(玄関の飾り瓦):「万年」 4.兎と波(内蔵の東面):「災いを避け子孫繁栄」 5.かぶら(内蔵の西面):「無病息災」
全体を通して解釈すると「木下家が、千年も、万年も、子孫繁栄し、無病息災でありますように」の願いを表しています。
大坂夏の陣で、豊臣一族は滅亡したと理解していましたが、秀吉の正室「北政所」の系譜の木下家は、備中足守藩主として明治まで続きました。
豊臣氏と足守藩主木下家の系図
戦国時代から安土桃山時代、徳川初期を中心に豊臣氏と足守藩主木下家の系図を掲載しています。